星の観測高台を登りきると、ちゃんちゃんこが階段から真っすぐ行った崖の方に座っていた。こぢんまりとしすぎて本当にちゃんちゃんこしか見えていないが、恐らくあれは幸津先輩で間違いない。
「先輩」
やや遠めから声を掛けるとそのちゃんちゃんこはビクッとした様子であった。下手をすると崖から落ちそうであったが、落ちた所でちゃんちゃんこなら問題なかろう。
恨めしそうに振り向いた先輩は目が赤くなっていて、泣き濡れている様子だった。一体どれほど崖縁で泣いていたのだろうか。幸津先輩のことだから昨日ふらふらと坂を登っていく時からずっと泣き続けていたかもしれない。
「やぁ、みなさんお揃いやないか」
そう言う声にも何となく力がなかった。目の下の隈が出来ていて、研究室で累々と重ねられた研究の締め切りに追われた幾人もの人物と同じような姿になっている。無論先輩は夏期の研究課題はないので飄々と遊んでいるはずである。隈を作る必要もないので研究が原因ではないのは解っている。
先輩にも説明をし忘れていたので、アリスの『帰る』についてを話そうとすると、「地球のどこかに帰るわけやないのやろ」と力ない声で言った。驚いて「えっ」と声を出してしまった。
「なんで知っているんですか?」
「そんな気がしただけや」
やはりよくわけの分からない人である。もはや立っているのも億劫そうで、隙あらばこぢんまりとした塊になろうとしている。
そのとき、アリスが少しずつ青く光り始めた。アリスは「あっ」と声をあげて空を見た。空にはいつの間にか、一番星が瞬いていた。まだ日の沈みきっていない橙色の空に、煌々と明るい星がぽつねんと出ているのである。
僕らも釣られて空の方を見ていると、アリスはとてとてと西の方角の崖へと歩いていく。段々とアリスの発光する青い色は眩しくなってきた。そしてふわっと浮きはじめたのだ。
「アリス」
「沢渡、もう行かなくてはいけないの」
青梅さんが狼狽えている。「ねぇ、これからどこへ帰るの?」
「またあえるんだよね?」とどこから取り出したのか、チョコレイトを差し出しながら聞いていた。アリスはそのチョコレイトを受け取りながら、ただにこにこと笑うばかりであった。
幸津先輩はアリスの青い光に照らされてこぢんまりとした塊になっていた。これまでで最もこぢんまりとしていたと思われる。
「楽しかった」
アリスが僕の頭を掴んで、おでこに軽くキスをしながら言った。その次の瞬間には目も開けていられないほどに青い光は眩しくなり、微かに「バイバイ」とだけ聞こえた。
しばらく、目が開けられなかった。まぶたを閉じていても真っ白な世界が続いていた。段々と光の弱まっているような感覚がして目を開けてみると、目の前にはまだ青い光が残っていて、アリスがまだ居るような雰囲気すらある。
呆然とその青い光を眺めていたが、アリスの姿は見当たらない。その青い光があんまり眩いので気がつかなかったが、先ほどまでは橙色の空だったのに、既に夕闇に包まれている。日が沈むのが早かったのか、長いこと目を瞑っていたのかは解らない。
振り向くと泣き崩れている青梅さんの姿が青く照らされていた。その更に後ろにはこぢんまりとした塊になりつつも、青梅さんよりも泣いているのが解ってしまう幸津先輩がやはり青く照らされている。それぞれの涙する声が響いているうちに、青い光は消えてしまった。
アリスはスピカの目前へと帰ってしまった。僕たちの住んでいる場所からでは、スピカが夜中観測するには、また来年にならないと難しい。なかなか会うことは叶わないようだが、アリスはうっかりとまた地球へ落ちて来るような気もする。
涙も枯れ果てて、夜の寒さを思い出し始めた。余り冷えると良くない。家に帰ってそれぞれ落ち着きましょうと提案をすると、青梅さんは賛同をしてくれたが、幸津先輩はどっちとも取れない反応であった。こぢんまりとしすぎて既に寒さに負けているのかもしれない。
先輩を置いて星の観測高台から降りようとした時、幾人かの人影が見えた。またしても課題の終わっていない学生だろう。データを採ることすら終わっていないとは危ういのではなかろうか。
帰り道でも時々思い出したように青梅さんは泣いていた。ふと空を見ると星が相変わらず綺麗で、ちらちらと瞬いている。一筋、流れ星が円弧を描くのが見えたが声をあげるよりもすぐに消えてしまった。
家に着くとたくさんのアリスの絵が迎えてくれた。その絵にアリスの面影をみるように、また一枚一枚眺めていると、足元にアリスのノートがあるのを見つけた。リング閉じになったノートは部屋中に貼られた絵のためにページを使われて、ほとんど枚数は残っていない。
開いてみると、出がけに書いたらしい文字が丁寧な文字で書いてあった。
『さわたり ありがとう』