1. 落ちてきた少女の考察 - あとがき

    四ヶ月とちょっと、確か140日くらい、毎日毎日数百字の文章をちょこちょことウェブに上げるだけの行為を繰り返しているうちに、11万と7000字以上にものぼる文章を書き上げていました。物語の9月10日の二番目の話の時に現実世界と同じ時間になってから、いつの間にやら二ヶ月も差をつけられています。なんということでしょう。
    思い返せばこの話を作ることになったきっかけは、2011年6月の二週目にR展という絵の展示をした時に遡ります。友人に急に、「空から女の子が降ってきたらどうする?」と言われました。最初は「ラピュタ的ななにかの話かしら」と思ったのだけど、すぐに「ちっちゃな子が!」と念を押されるのです。その友人は別の友人とその話で前日に盛り上がっていたとの事でした。そんなわけでアイデアを文章に起こさせて頂いたお礼をここで申し上げます。本当にありがとう。
    僕の回答は物語の序盤の通りなんですが、その週と次の週はもう「お題! もしも空から女の子が降ってきたら!」をノートにだらだら書いていました。その次の週にはtumblrを利用して数百字ずつ、朝刊の連載みたいな気分でアップを始めたわけです。
    いつか文章を書きたいと常々漏らしていたこともあって、このタイミングで書いてみたんですが、まさかこんなに長くなるとは思わなかったというか、正直熊本のことだし途中で挫折するだろと思ってました。
    でもノートに「この日はなにをする、この日はどこにいく」と設定を未来日記形式に書いてしまっているので後にも引けません。糸井重里という人物がほぼ日刊イトイ新聞という愉快なブログをやっておられますが、ほぼどころか毎日書いている。朝刊の連載形式にした以上は、僕も「ほぼ」ではなく毎日上げたいなーと思ってやってみたら、なんとか切らすことなく出来ました。正直推敲する時間はあまりなかったので、ウェブ上では誤字や言い回しの間違いがひどいんですが、雰囲気で楽しんでもらえたら嬉しいです。あ、このあとがきだけは推敲してます。さすがに誤字あると泣きそうなんで。
    最初、この文章を書くにあたってこれからの絵や文の、自分のためのアーカイブにでもなればいいな程度に思っていたんですが、アリスの絵を描いてもらったり、ポストカードにしてもらったり、母校の書籍の授業で製本に取り扱ってもらったりして、なんとも幸せなことでした。本当に様々な場面でありがとうございました。 twitter - @kumamotsu

     
  2. 落ちてきた少女の考察 - 9月23日 2

    星の観測高台を登りきると、ちゃんちゃんこが階段から真っすぐ行った崖の方に座っていた。こぢんまりとしすぎて本当にちゃんちゃんこしか見えていないが、恐らくあれは幸津先輩で間違いない。
    「先輩」
    やや遠めから声を掛けるとそのちゃんちゃんこはビクッとした様子であった。下手をすると崖から落ちそうであったが、落ちた所でちゃんちゃんこなら問題なかろう。
    恨めしそうに振り向いた先輩は目が赤くなっていて、泣き濡れている様子だった。一体どれほど崖縁で泣いていたのだろうか。幸津先輩のことだから昨日ふらふらと坂を登っていく時からずっと泣き続けていたかもしれない。
    「やぁ、みなさんお揃いやないか」
    そう言う声にも何となく力がなかった。目の下の隈が出来ていて、研究室で累々と重ねられた研究の締め切りに追われた幾人もの人物と同じような姿になっている。無論先輩は夏期の研究課題はないので飄々と遊んでいるはずである。隈を作る必要もないので研究が原因ではないのは解っている。
    先輩にも説明をし忘れていたので、アリスの『帰る』についてを話そうとすると、「地球のどこかに帰るわけやないのやろ」と力ない声で言った。驚いて「えっ」と声を出してしまった。
    「なんで知っているんですか?」
    「そんな気がしただけや」
    やはりよくわけの分からない人である。もはや立っているのも億劫そうで、隙あらばこぢんまりとした塊になろうとしている。
    そのとき、アリスが少しずつ青く光り始めた。アリスは「あっ」と声をあげて空を見た。空にはいつの間にか、一番星が瞬いていた。まだ日の沈みきっていない橙色の空に、煌々と明るい星がぽつねんと出ているのである。
    僕らも釣られて空の方を見ていると、アリスはとてとてと西の方角の崖へと歩いていく。段々とアリスの発光する青い色は眩しくなってきた。そしてふわっと浮きはじめたのだ。
    「アリス」
    「沢渡、もう行かなくてはいけないの」
    青梅さんが狼狽えている。「ねぇ、これからどこへ帰るの?」
    「またあえるんだよね?」とどこから取り出したのか、チョコレイトを差し出しながら聞いていた。アリスはそのチョコレイトを受け取りながら、ただにこにこと笑うばかりであった。
    幸津先輩はアリスの青い光に照らされてこぢんまりとした塊になっていた。これまでで最もこぢんまりとしていたと思われる。
    「楽しかった」
    アリスが僕の頭を掴んで、おでこに軽くキスをしながら言った。その次の瞬間には目も開けていられないほどに青い光は眩しくなり、微かに「バイバイ」とだけ聞こえた。
    しばらく、目が開けられなかった。まぶたを閉じていても真っ白な世界が続いていた。段々と光の弱まっているような感覚がして目を開けてみると、目の前にはまだ青い光が残っていて、アリスがまだ居るような雰囲気すらある。
    呆然とその青い光を眺めていたが、アリスの姿は見当たらない。その青い光があんまり眩いので気がつかなかったが、先ほどまでは橙色の空だったのに、既に夕闇に包まれている。日が沈むのが早かったのか、長いこと目を瞑っていたのかは解らない。
    振り向くと泣き崩れている青梅さんの姿が青く照らされていた。その更に後ろにはこぢんまりとした塊になりつつも、青梅さんよりも泣いているのが解ってしまう幸津先輩がやはり青く照らされている。それぞれの涙する声が響いているうちに、青い光は消えてしまった。
    アリスはスピカの目前へと帰ってしまった。僕たちの住んでいる場所からでは、スピカが夜中観測するには、また来年にならないと難しい。なかなか会うことは叶わないようだが、アリスはうっかりとまた地球へ落ちて来るような気もする。
    涙も枯れ果てて、夜の寒さを思い出し始めた。余り冷えると良くない。家に帰ってそれぞれ落ち着きましょうと提案をすると、青梅さんは賛同をしてくれたが、幸津先輩はどっちとも取れない反応であった。こぢんまりとしすぎて既に寒さに負けているのかもしれない。
    先輩を置いて星の観測高台から降りようとした時、幾人かの人影が見えた。またしても課題の終わっていない学生だろう。データを採ることすら終わっていないとは危ういのではなかろうか。
    帰り道でも時々思い出したように青梅さんは泣いていた。ふと空を見ると星が相変わらず綺麗で、ちらちらと瞬いている。一筋、流れ星が円弧を描くのが見えたが声をあげるよりもすぐに消えてしまった。
    家に着くとたくさんのアリスの絵が迎えてくれた。その絵にアリスの面影をみるように、また一枚一枚眺めていると、足元にアリスのノートがあるのを見つけた。リング閉じになったノートは部屋中に貼られた絵のためにページを使われて、ほとんど枚数は残っていない。
    開いてみると、出がけに書いたらしい文字が丁寧な文字で書いてあった。
    『さわたり ありがとう』

     
  3. 落ちてきた少女の考察 - 9月23日 1

    その日はとても寒い日だった。アリスは昨晩、「一晩中沢渡と遊ぶ」と息巻いたが、年越しを待てなかった子どものように日を跨ぐ前に寝てしまった。
    朝はアリスが先に起きていて、窓から外を見ている。あまりに寒いのでまたこぢんまりとした塊になろうとしたら、起きたことに気がつかれて布団を剥がれてしまった。
    ぶるぶる震えながら起き上がると、部屋中にアリスの絵がたくさん貼ってあった。見たことある絵も、見たことの無い絵もある。アリスのノートを見ると、大分厚みがなくなっていた。たくさん絵を描いたんだなぁと思いながら部屋中の絵を眺めてみると、お祭りの絵や台風屋台の絵、月の絵やぶどうの絵などアリスが出会ったたくさんの出来事の絵であった。
    アリスはお祭りの日に「楽しいことたくさんたくさんありますように」とお願いをしていた。たくさんたくさんの楽しいことに出会えたことは部屋中の絵が教えてくれている。
    絵を見ている間、アリスはとてもにこにこしている。机に向かって僕の論文を手に取ったりなどもしていた。
    「アリスは昨日、僕の論文を読んで帰らなきゃいけないと気付いたと言ったよね。もし論文を書かなければ、帰らなくて済んだのかな」
    「ううん。今日、どうしても帰らなくちゃいけない。気が付けて、よかった」
    気付かずに今日を迎えたら、アリスはどのように帰ることになったのだろうか。アリスはやはり今日帰ってしまうようである。アリスが居ないことがスピカが赤く見えた原因であるのだと言っていた。アリスが帰るのは従兄弟の家でもなければ、地球のどこかでもない。月よりも遠くへ行ってしまう。
    何度か「帰らなくて済む方法はないのだろうか」と僕が駄々をこねたものの、アリスはただ笑うばかりであった。考えてもみれば、元の家に帰れることの方がアリスにとっては幸せに違いない。行かせてあげるべきなのである。
    それからはアリスがどうしたら帰らずに済むかなどの会話は一切せずに、これまでのことなどを話した。何が一番楽しかったか、驚いたことなどをアリスはあれもこれもとかいつまんで並べた。絵に描き忘れたことを思い出すと、すぐにノートを開き、ペンを走らせていた。ノートを破りまた壁に貼る。アリスの絵は、若干暗号めいた部分もあるが何を描いているのかは解る。部屋中の絵を観るたびにこんなこともあったなぁと話が膨らんだ。
    気がつくと日が落ちそうになっているほどに話に集中をしていた。アリスが窓の方を見て「あっ」と声をあげた。
    「そろそろ、星が出ちゃうかな」
    「そうだね。そろそろ一番星の時間だ」
    そう言うとアリスは星の観測高台に行こうと言った。さらに「先に外に出ていて」とアリスが言うので、なにかなと思いながら外に出るや、すぐにアリスが出てきた。なんだったのであろうか。
    外は朝よりも寒く感じた。身震いをするほどである。このところずっと寒い寒いと言い続けている気がするが、段々と寒くなっていっているのは間違いないだろう。幸津先輩が動けなくなる日も近いのではないだろうか。
    街灯が点灯するのも早くなった。商店街の方からの活気は道の方まで届いてくるし、コンビニは静かでこればかりはいつも通りである。コンビニについてはこれから毎日、大学が始まるまで夜の間は繁盛しそうな気配ではあるが。
    星の観測高台までの道のりの間にも、アリスは色んなことを思い出すようにきょろきょろとしていた。その姿ははじめてこの坂道を歩いた時の楽しそうな姿そのもので、キラキラとしている。
    そのまま坂を下っていくと、三叉路に青梅さんが居た。物悲しそうな雰囲気で手を後ろで組んで立っている。下を向いているので僕たちに気がついていないが、何かを考えているようである。
    「青梅さん」
    声を掛けると、青梅さんは顔をあげてパッといつも通りの明るい顔をしてくれた。ぶんぶんと手を振って応えてくれたが、手を振るほどにそう遠い距離でもない。
    「こんにちは。良かった、来てくれたんだね」
    「うん! でもどうして高台なの?」
    やはり気になっていたようである。アリスが一番星が出るといけないと言うので、星の観測高台を登りながら説明をした。実は従兄弟の子ではなく、いつの間にか手に収まっていたこと。そして今日帰るのだと言うこと。帰る場所についてはうまく説明が出来ず、『帰る』としか言えなかった。
    青梅さんは怪訝そうな顔をしながらも、「その『帰れる』のが高台なの?」とだけ聞いてきた。
    「多分、そうなんだと思う」

     
  4. 落ちてきた少女の考察 - 9月22日 5

    大学は昨日よりも人の数が多くなっていた。遅れて参上した研究課題の泊まり込み組だろうか。
    レストハウスは文字通りにレストハウスと化していて、食堂は営業していないが椅子は空いていない。誰も姿勢を正して椅子に座っているものは居らず、だらだらと机に突っ伏しているのが見える。
    事務棟の前には昨日病院に搬送されたハズの学科長が居た。思わず「あれ?」と声をあげると、学科長がブンブンと手を振りながら「やぁやぁ、沢渡くん」と声を掛けてくれた。
    「学科長。もう腰は大丈夫なのですか?」
    「こんな痛みに負けてるようじゃ学科長にはなれないなぁ。ところで見てくれよこれこれ」
    そう言いながら学科長が差し出してきたのはうにだまであった。病院の売店の中にあったのだそうで、とても憎たらしい顔をしている。
    「非常に可愛らしい顔をしているだろう?」と学科長は言うが、昨日見たたくさんのそれと見分けがつかないほどに憎たらしい。ところで学科長はうにだまを踏みつけて腰を痛めたのではなかったか、帰りしまでうにだまを持ち帰ってくるとはとんでもないうにだま愛である。
    「はぁ、そうですね」と適当に相づちを打っていると向こうからおハゲ教授が来たらしく、学科長が「田端く〜ん」とブンブン手を振っている。振り返るとおハゲ教授がギョッとした顔をしていた。
    なんだか恐ろしい気配を感じ、その場を退散した。文学部のある一号棟に向かう途中に大きな時計がある。その時計は学校のどこからでも見えるが、止まっていて役に立っていない。近づいてみるとやはり大きいなと感心していると、「沢渡くん、アリスちゃん!」と声をかけられた。青梅さんであった。
    青梅さんにもアリスが帰る旨を伝えた。青梅さんは寂しそうではあったが「そっか、帰っちゃうんだね…」とアリスの頭を撫でて、僕や幸津先輩の比にはならないほどに冷静であった。
    「明日ひまがあったら高台に来てほしいんだ」と言った時だけはとても不思議そうな顔をしていた。帰ってから気がついたが、よく考えると当然である。青梅さんは従兄弟の家に帰ると思っているに違いなかった。

     
  5. 落ちてきた少女の考察 - 9月22日 4

    明日は何かの日だったかな、青梅さんにはなんと説明しようと考えながら外へ出た。
    「そうだ、帰るにしても、一体どうやって?」
    「あの高台からがいいな」
    具体的な帰り方ではなく、場所を伝えられてしまった。
    星の観測高台からアリスと月に行ったことがある。月に行ったとき、アリスは遠くの方を見つめていた。ひょっとすると、見ていたのはスピカの方だったのかもしれない。
    青梅さんのマンションに行ったが留守だった。大学に居るのかなとアリスと話して、マンションの駐輪場から森の抜け道へ入った。
    森に入った途端に吐息は白くなり、その寒さは全身に伝わってきた。林道を歩いていると鹿たちがザザッと相変わらずの音を立てて、木蔭にその姿が見えた。残念ながら今日は梅の実を持っていない。ジッと鹿はこちらを見ているが、僕たちは余りの寒さに早々に林道を抜けた。白い吐息をはきながらコンビニの裏手に出ると気温が暖かく感じる。そんなはずはないのだが、なにぶん森の中が寒すぎるのである。
    坂を下っていると、ちゃんちゃんこ姿の幸津先輩に出会った。この人にも一応報告をしておくべきかと思い足を止めた。しかしどう説明したものかとぼうっとしていると、「明日帰るね!」とアリスが快活に言った。
    先輩はぽかんとした顔をした。さっき僕が同じような顔をしたような記憶がある。先輩はこれ以上話を聞きたくないと言う感じに、「そうかぁ、帰るんかぁ…」と言いながらふらふらと僕たちの脇を通り過ぎようとした。
    「先輩、明日ひまだったら、高台に来てください」
    ふらふらとしながら先輩はこくりと頷いた。こくりと頷いた衝撃で転けそうになる程にふらふらとしている。
    坂を登っていく先輩を見ていると何度も足をつまづかせてばつの悪そうに足並みを正していた。余程にショックだったようである。

     
  6. 落ちてきた少女の考察 - 9月22日 3

    突然そんなことを言うものだからぽかんとした顔をしてしまった。アリスはとても神妙な面持ちになっている。
    「あの男の子のこと、知らないけど、知ってた。沢渡の書いた文章、よく解らなかったけど、解った」
    どういうことだろうかと首を傾げていると、アリスは続けた。
    「だから、明日に帰らなくてはいけない」
    ぽかんとした顔のまま、アリスに幾度も質問を投げかけた。
    以下はアリスから聞き取って整理した内容である。
    アリスは明日帰らなくてはならない。これは今日でも良いらしい。昨日でも良かったらしい。この家に居られる最も長い日にちが明日だそうである。
    あの少年については、遥か遠くに居るところを見たのを思い出したのだそうだ。遥か遠くに見た少年はずっと青白い光りに包まれていて、とても眩しかった。でも近くでその少年を見たことも無かったし、話したこともなかった。なので、少年と出会った時は少しも思い出せなかったと言う。
    論文について、アリスは正しいことが書いてあると言った。どうしてかを聞いたが、その根拠については解らないの一点張りである。
    ただ論文を解らないながらも読んだアリスは、地球から見てスピカの前周辺が自分の本当の居るべき場所だと気がついたのだそうだ。地球からスピカが赤く見えたのはアリスや少年が居なかったからだと言うのである。
    話している最中は、頭の整理が追いつかず、またこぢんまりとした塊に戻りたい気分であった。いっそ大学に行って自分神輿を担がれてしまえばと思いながら、頭の中でわっしょいわっしょいとその想像に逸脱してやまなかった。
    「青梅ちゃんにも明日帰るねって言いたい」
    「ああ、そうだね」
    しかしなんと説明したら良いのだろう。そもそも明日帰ることが決定事項になっているが、まだ納得がいっていない。
    「どうしても明日帰るの?」
    「明日じゃなきゃ駄目なの」
    アリスはカレンダーを見ながら言った。

     
  7. 落ちてきた少女の考察 - 9月22日 2

    アリスはこちらをじっと見ていた。吸い込まれそうなほどに青い瞳が、少し潤んでいてとても綺麗である。窓から吹き込んでくる風がアリスの髪の毛を柔らかく揺らしていた。
    おもむろに立ち上がったアリスは、僕が形成するこぢんまりとした布団の中に飛び込んできた。ただでさえこぢんまりとしている所を、上からぎゅぎゅっと押さえ付けられて、更に自分の身体を凝縮せねばならん事態となった。
    布団に凝縮されることなどなんら問題はなかったが、段々とアリスの体温で暑くなってきた。おまけにふわふわとした髪の毛がくすぐったい。いよいよ暑さに我慢が出来なくなってきて、プハッと布団から頭を出すと、アリスがころんと畳に転がった。転がったアリスは天井の方を見上げている。そのままなかなか起き上がらないので何かと思い、アリスの視線の方へ目をやってみると、まるまると太った赤金の金魚が居た。
    どこから入ってきたのか、金魚は空中をすいすい泳いでいる。金魚は灯りを付けているかのように光っていて、とても目立つ。金魚が動くと部屋に作られる影も動くほどに光っている。螺旋を描くようにすいすいと部屋中を好き勝手に泳ぎ回り、終いには窓から出て行ってしまったのである。
    僕もアリスも窓から出て行った金魚を眺めていた。しばらくはすいすいと泳いでいるのが見えたが、小さい金魚だったのであまり遠くに行かないうちに見えなくなってしまった。あれだけ部屋の中では光っていたのに、太陽のもとではただのまるまると肥えた金魚となっていた。
    ハッとした顔でアリスが僕のほうを振り向いた。そして言うのである。
    「沢渡に、聞いてもらわなくちゃいけない」
    「うん? なあに?」
    「わたしは、明日に帰らなくてはいけない」

     
  8. 落ちてきた少女の考察 - 9月22日 1

    研究が完成した僕は、夏休み前半を思い出すように部屋でこぢんまりとした塊になった。もうあと十日ばかし、やることはなにもない。大学に赴けばまた課題の完成していない人間から鬼の形相を向けられて神輿のように担がれるに違いない。外は一段と寒くなってきたので、布団をかぶって凌ぐのが一番である。
    しかし夏休み前半といまでは様子が違うのだ。こぢんまりとしているところを誰あろうアリスが許してくれなかった。文机の前に掛かった遮光カーテンを勢い良く開き、朝の光を取り入れて僕の身体から布団を剥ぎ取ったアリスは「お腹がすいた!」と言った。
    何を隠そう自分も腹が減った。致し方がないので、よろよろとキッチンに立ち、「寒い寒い」とアリスと話しながら簡単に朝食を作る。畳ばかりの部屋なのになぜキッチンの前だけはフローリングになっているのだろうか。足が冷えて仕方がない。
    出来た朝食はとても簡単なものだったがアリスは喜んで食べてくれた。昨日までの沈んだような表情は一切なく、笑いながら会話をして明るい顔を見せてくれている。
    昨晩アリスが「お母さんを探さなきゃ」と言ったのは冗談だったのかと思えるほどに、部屋にはいつも通りの雰囲気が漂っていた。ごちそうさまをしたアリスは自分のノートに絵を描き始めた。どこかに出かけようと言わなければ、きっとこのままお昼まで描き続けるに違いない。
    もう研究課題についてあれこれすることもない。ぼーっとアリスが絵を描いているのを眺めていようかと、再び布団に包まって部屋の隅でこぢんまりとした塊になった。
    しばらくはそのままいつも通りの雰囲気であった。布団の暖かさでうとうとしてきた頃にパタンッと勢いのいい音が響いて目を覚ました。頭を上げると僕の顔の僅か近い所で、ノートを両手で閉じているのが確認出来る。

     
  9. 落ちてきた少女の考察 - 9月21日 6

    結果はぶどうの皮をフィルターにしたように見えるというものである。この劇的なスペクトルの変化が起こりうれば、幸津先輩がスピカを赤く見たことも頷ける。仮説だが、しかし面白い論文が出来た。
    大学構内はまだ人の姿があちこちに確認出来た。彼らは今日も大学に泊まって研究を続けるのかもしれない。そうなるとコンビニの売り上げがとてもあがることだろう。
    そうだ、店長に寂しがられていたので帰りしなコンビニに寄らなくてはいけないなとおもいながらアリスの方をみると、さっきのふわっとした笑顔は消えてまた一段とどんよりとしていた。海のほうの遥か遠くをやはりジッと眺めている。
    「アリス、本当にどうしたの?」
    「沢渡、あの男の子は、ちゃんと帰れたのかなぁ」
    「あの子か。きっとお母さんを見つけて走って行っちゃったんだよ」
    「そっか」と言い、微笑んでアリスは続けた。
    「わたしもそろそろお母さんを見つけなきゃ」
    ああ。アリスが余りに日常に馴染んでいたため、すっかり忘れていた。この子は未だに解明されていない不思議な現象である。空から落ちてきたように見えたが、いつの間にか腕の中に居た。僕は従兄弟の子としてアリスと過ごしている。
    アリスの突然の言葉に呆然としていると論文を落とした。アリスはそれを拾って、にこっと笑った。
    「沢渡、コンビニに行こう」
    足取りが非常に重い。大学の坂を降りて星の観測高台を真っすぐに、家に向かって坂道を登る。やはり坂は好きではない。
    コンビニは溢れるほどに人が居た。案の定泊まり込みで研究を続ける学生の買い出しである。店長とともにテキパキと青梅さんが手際良く仕事をこなしている。余りの人の多さで入るのを憚られるほどだ。店長側で買い物をすると、「オラ、今夜中に論文書き上げろよ!」と嫌な罵声が付いてくるようである。
    今日はゆっくりも出来そうにないので、入口で店長の知らない人への罵声を二度ほど聞いた所で退散をすることにした。出て行きがけに青梅さんが気付いてくれて、手を振ってくれた。僕もアリスも手を振り返した。

     
  10. 落ちてきた少女の考察 - 9月21日 5

    「沢渡の論文を破いてしまえ!」
    そう叫んだのは三回生の先輩である。なんと恐ろしいことを言う人かと危険を感じ、とっさに論文をアリスへ投げ渡した。アリスは論文を受けとるや、背後に隠し後ずさりをした。
    後輩は泣き喚き、同期と先輩達はわあわあと僕を担ぎ始める。胴上げが始まるのではないかという雰囲気が漂い始めているが、祝賀の念ではなくただの八つ当たりからなる恨みが僕を担いでいるので大学合格以来の胴上げが無いのは知っている。
    神輿のようにしばらく為すすべもなく上下させられていると入口のほうから怒声が響いた。
    「こら、何をしているのか!」
    おハゲ教授の御一喝である。自分神輿から解放された僕は、静まり返ってしまった担ぎ手たちの代わりに経緯を説明する羽目になってしまった。研究課題の論文が完成してうっかり喜んで出来たと言ったら担がれたというのはなんと間抜けな理由だろう。
    「沢渡くん、まだ研究出来てなかったの」
    「はぁ、今日やっと完成しました」
    「なんだてっきり八月中に完成しちゃってるもんだと思ったのにねぇ。いや完成したならいいのだよ」
    皆も見習いたまえよと教室に怒声を浴びせる教授である。恐ろしさと焦りからみんな余計に泣いた。論文の安否を確かめるためにアリスのほうを見てみると、僕の論文を開いていた。読んでいるのかは解らないが、アリスの周囲だけとても安寧な聖域に守られているように静かだった。
    やっとの思いで研究室を出た時には夜の帳がおりて既に星が瞬いていた。
    前期に書き上げたソンブレロ銀河のレポートを超えるものが出来たと勝手に思っているアリスの手元にある論文には、回りくどくもただ分厚いガスが発生した場合の仮説のことが記されている。
    幸津先輩がスピカを赤く観測したという起草から、似た星が集まるケフェウスを観測し続けてきた。ケフェウスの手前に想像だにしない分厚いガスを発生させた場合、または本当は分厚いガスが覆っていてそれらが一斉に取り除かれた場合、各星々は、ガーネット・スターはどう見えるか。そして、スピカで同じことが起きたらどう見えるか。